あんずの食品産業が始まったのは江戸後期。明治の生活洋風化で商品が多様化し、あんず産業の確立を見るに至ります。

あんずが食品として産業化するのは江戸後期。従来捨てていた果肉が杏干(あんずぼし)となってからです。明治に入ってからは洋風化した生活に合わせて加工品が多様化し、食品産業としての地位を確立しました。明治末から大正・昭和にかけてはあんずの品種改良や商品の多様化が進み、産業としてさらに充実していきます。


あんず食品産業の歴史(1)江戸時代
杏干(あんずぼし)の登場で成長産業に

あんず製品産業

あんずが産業として成長するきっかけとなった、「杏干(あんずぼし)」登場の様子を見てみましょう。『杏花の里―信州・森のあんず―』(銀河書房、昭和59年刊)では、杏の販売について、嘉永元年(1848年)に書かれた「古老話聞書」の一部を引用した後、次のように記述しています。
「杏の販売は、当初、杏の種(杏仁=あんにん・きょうにん)のみで、杏の肉の部分は杏仁をとるために土の中に入れ腐らせていた。杏仁の値段も寛政のころまでは高く、百文につき、一升二~三合で売れたという。しかし、文化期(1804~)に入って事情は一変した。今まで腐らせ、そのまま捨てていた杏の果肉の部分が、「杏干」として売れるようになったからである。値段もよく、百文につき一升八合から二升で売れたのである。これによって杏は「杏仁」と「杏干」との二商品で売られ、まったくむだのない販売ができるようになったわけである。杏干は次第に値段が高くなり、ついには杏仁の二倍で売れるようになった。このような勢いは、天保期(1830~)における杏の植え付けを盛んにし、一軒で、七~八両の金を得るようになったという。しかも、森村全体では「能(よく)なりし年ハ、当村斗(ばか)りにて、凡(およそ)三百両も益する也」というほどであった(『見聞集録』)。これは当時にあっては、極めて多額であり、杏が文化から天保にかけて、たいへん重要な村方助成になっていたことがわかる。」(26頁)

あんず食品産業の歴史(2)明治時代
生活の洋風化であんず加工品の多様化が進む

『杏花の里―信州・森のあんず―』(銀河書房、昭和59年刊)では、明治時代のあんずの加工について、次のように記述しています。「寛政(1789~1800年)のころには干杏がつくられるようになり、以来年々盛んに生産され、この地方の名産として諸方に出荷されるようになった。一時は不振の時もあったが、明治における官民一体になっての産業振興の気運のなかで、干杏の生産も盛んになり、品評会の開催式あるいは火力乾燥器による干杏製造の試みも行われた。明治43年には、森村杏改良組合が設立され、接木技術の普及、硫黄燻蒸による干杏の製造、干杏に適した優良品種の選定普及、あるいは生産方法の改良による品質の向上などの努力が重ねられ、干杏の生産はいっそう盛んになった。豊作の年には村内で一万数千貫の干杏が生産され、おもに東京方面へ出荷された。」(195~196頁)また別の頁では、あんず加工の先駆者たちを次のように紹介しています。「明治維新以後、文明開化の波に乗って、洋菓子、パン、西洋料理などが次第に普及し、一方で長野更埴地方を中心に、特産杏を加工し名産品として売り出そうとする努力が続けられた。記録によれば、明治15年ごろ、安茂里の青木佐太郎氏らは、丸杏の缶詰を考案していた。明治23年、長野市の雨宮伝吉氏は、丸杏の缶詰を、また同24年にはジャムの製造を始めた。明治25年には長野市の池田元吉氏らが杏の蜜漬を完成し、同じころ森村の柏原寛行氏と生萱村の高野一道氏らは、杏酒の製造を試みたという。明治35年ごろから、長野市の池田元吉氏は森村で西村金市郎氏らと丸杏の缶詰の製造を始めていた。このころ製造された製品は、練杏、丸杏、杏ジャム、干杏しそ巻、甘露漬などであり、東京方面へ盛んに出荷されたという。以上のように、明治の中期以降、長野市や森を中心とした更埴地方の先駆者たちの苦心で、杏の加工製造が盛んとなり、その声価を高めた。」(197~198頁)

あんず産業の確立した明治末からは拡大発展期。昭和にかけて品種改良や商品開発が進み、あんず産業が充実します。

あんず食品産業の歴史(3)大正時代
品種改良で品質アップ、工場進出も盛んに

あんず製品

『杏花の里―信州・森のあんず―』(銀河書房、昭和59年刊)では、明治から大正時代へかけてのあんずの加工について、次のように記述しています。「しかし、缶詰やジャムの生産が盛んになり、また杏の品種でも次第に缶詰やジャム生産に適した洋杏系統(明治以降、政府の勧業奨励により欧州、アメリカなどから導入された品種)が増産され、また高度経済成長にともなう農業事情の変化、あるいは杏製品の輸入自由化などにより、昭和30年後半ごろから干杏生産は逐次減少の道をたどり、現在は自家用を中心に最盛期の10分の1ぐらいになってしまっている。現在杏は、生原料からジャムや缶詰類、菓子、果汁などに広く加工され、利用されている。」(196頁)また別の頁では、あんず加工の先駆者たちを次のように紹介しています。「下って明治の末から大正、昭和にかけて、杏の品種改良、増産奨励などが盛んに行われ、杏生産はますます盛んになり、パン食、洋菓子の普及と相まって、杏ジャムや杏缶詰の製造が盛んに行われるようになった。明治42年、村上村の小出保一郎氏がジャム製造所を、また大正8年、更科村の水井新穂氏が更科杏ジャム会社を、さらに大正10年には、森村杏改良組合が杏加工場を設立、ジャム、丸缶の製造を始めている。大正に入ってからは、大正2年に東京の大日本ジャム製造会社が森村で杏ボイル(ジャム原料)の製造を開始したのを皮切りに、森村を中心に多くの会社の出先工場が進出し杏加工を行うようになった。ことに森村では、明治の末から森村杏改良組合を中心に、品評会の開催、接木技術の普及奨励、優良品種の選定普及が図られ、杏生産の向上に努力が続けられた。大正10年からは、杏加工場を設立し、自らジャムおよび杏缶詰の製造を始め、杏加工の研究開発に苦闘した。この加工場は、その後、森村産業組合、森村農業共同組合および森食品工業株式会社などへと引き継がれ、杏加工の中心として、森の杏の発展とともに今日に至っている。」(198~200頁)

あんず食品産業の歴史(4)昭和時代
独特の風味・品質、世界との競争にも期待

『杏花の里―信州・森のあんず―』(銀河書房、昭和59年刊)では、近代のあんず製品の多様化について、次のように記述しています。「戦前は「干杏関東凍豆腐関西」といわれ、森の干杏はほとんど東京方面へ出荷され、みつ豆の材料に使用され、甘露煮の串ざしは紙芝居屋さんに多いに利用され、子供たちを喜ばせたときいている。森の各家庭では昔から、杏の焼酎漬、干杏のしそ巻、手づくりジャムなどが家庭の自慢料理として受け継がれている。また、折詰料理には必ず杏を使うという地方も、まだ残っている。現在、杏製品は地元の名産として、長野市、更埴地方、上田市などで有名菓子店の銘菓として多く利用され、また一般食品として杏ジャム、割杏、丸杏の缶詰、しそ巻杏、ジュースなどに加工され、家庭用に、洋菓子の材料その他に広く利用されている。また最近は、杏ワインなども開発されている。もちろん杏の加工品は早くから輸入が自由化され、ジャム原料、缶詰、干杏類がスペイン、ポルトガル、南アフリカ共和国、アメリカ、中国など世界各地から多数輸入されている。しかしながら日本の杏は、日本に移植されてから千年以上の歳月を日本の気候・風土に育てられ、独特の風味・品質を与えられ、今日まで、多くの努力によって、その花の美しさとともに愛され続けている。杏は他果実にはない希少養分や豊富なビタミン類が含まれていて、杏の実を毎日二~三個食べることは健康にたいへん良いとされている。その酸味は独特であり、また加工することによりたいへんおいしい食品が生まれる。森の杏はこれからも衰えることなく、ますます盛んになり、おいしい健康的な杏製品が生まれ、大勢の人々に愛され続けるものと確信している。」(200~201頁)※ここでいう現在とは、同書刊行当時の昭和59年(1984年)頃をいいます)。

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