あんずは中国北部原産で歴史の古い果実。中国では二千年前からあんず栽培の歴史があり、種子の中身を薬にしていました。
あんずの原種は中国大陸北部の山岳地帯で生まれ、中国では2,000年も前から栽培されていました。あんずは種子の中身が古くから薬として珍重され、中国最古の薬草事典『神農本草経』(210年頃から)にも「咳止め薬」として掲載されています。現代ではフルーツとしてお馴染みのあんず。そのルーツと歴史を探ってみましょう。
あんずのルーツと歴史

あんずのルーツと歴史1
あんずの原種とその仲間 (※資料1より)
私たちが普通目にするアンズ(乾燥・多肉型)は、中心に大きな種子を1個持つ核果という形態で、ウメ・スモモ・モモ・サクランボの仲間です。
■ホンアンズ(本杏)【原種】 (Prunus armenica Linne)
世界各国で栽培されているあんずの「原種」で、原産地は中国大陸北部の山岳地帯。離核性(種と果肉が離れている)の高木で果実は5~7g。完熟すれば肉質柔かく、甘い風味でほどよい酸味に。学名の種名アルメニカは「アルメニアの」を意味するラテン語。
■マンシュウアンズ(満州杏) (Prunus mandschurica Koehne)
旧満州国奉天と安東との間、安奉線沿線の山岳地帯から朝鮮北部の一帯に野生する高木。離核性小果でやや長円形、果肉は全く食用価値がない。学名の種名マンジューリカは
「満州の」を意味するラテン語。
■モウコアンズ(蒙古杏) (Prunus sibirica Linne)
P.armeniaca L. var. sibirica Koch
全く改良されていない野生種で、旧満州国遼西地方から北満一帯、さらにはロシア国境を越えてシベリアにまで広く分布する。本来小高木だが砂漠乾燥地帯では低木。離核性で実は5g前後の円形小果。果肉は薄く酸味・渋味があり、杏仁として薬用のみに使用。
学名の種名シビリカは「シベリアの」を意味するラテン語。
あんずのルーツと歴史2
あんず栽培の歴史と広がり (※資料1より)
あんずの栽培は原産地の中国で2,000年も前から行われ、ヨーロッパには1世紀頃に伝わったといわれています。北米には18世紀に伝わりました。現在では西アジアやヨーロッパ南部、北アフリカなどに広がり、米国のカリフォルニアが世界的な産地になっています。その他、栽培が盛んなのはトルコ・イランほか中東、フランス、ユーゴスラビアなどです。
あんずのルーツと歴史3
あんずの薬としての歴史 (※資料2より)
■中国最古の薬草事典に咳止め薬として記載
あんずの歴史を調べるときには欠かせない名著『杏花の里―信州・森のあんず―』(監修・横島 章、銀河書房、昭和59年刊)では、あんずの薬としての歴史について次のように記述しています。
「薬としての歴史は非常に古く、中国最古の本草(薬草関係のこと)の文献で、伝説上の薬祖神・神農の名を冠した『神農本草経』(210年ごろから)にすでに記載されている。この『神農本草経』には、365種の薬物が上・中・下薬に分類して収載され、漢方の原典といわれている書物である。このなかであんずは「杏核仁」の名で鎮咳用薬(咳を静める)として下薬に分類されている。下薬は、別名を「佐使」と呼び、病を治すが毒性も強いから長期にわたる連用を慎まなくてはならない。…中略…このように、あんずは中国で薬用として確立されたのち、あんずの木と一緒に日本に紹介された植物である。」(178~179頁)
なお、日本に伝えられた経緯や当時の公式記録については次のような記述も。
「554年に百済から、薬の専門家と多数の医書が日本に入って来たとき、このなかに『神農本草経』の書物も含まれていたらしいので、日本に薬用として伝わったのは、このころと考えられている。我が国の書物であんずを薬用として収載したのは、天明天皇の詔勅(713年)によって編纂された『風土記』である。このなかであんずは、生薬(しょうやくと読み、薬として使える形にした物)として、「杏仁」の名で登場してくる。」(179~180頁)
(※引用の際、縦書き漢数字を横書き算用数字に、旧漢字を新漢字にするなど表記を一部調整。以下同様)
あんずのルーツと歴史4
あんずにまつわる中国の故事 (※資料2より)
■大学や製薬会社の名前にある「杏林」の意味とは?
『杏花の里―信州・森のあんず―』(銀河書房、昭和59年刊)では、あんずにまつわる中国の故事について次のように記述しています。
「昔、中国の廬山(ろざん)(江西省北部で揚子江岸、九江の南西)に董奉(とうほう)という名医がいて。たくさんの患者を治療したが、治療の報酬として金銭は受け取らなかった。その代り、重い病気が治った者には記念として杏を五株植えさせ、軽い者には一株の苗を植えさせた。このようにして、数年すると十万株もの杏が鬱然たる林をなした。この故事から、後世、名医のことを杏林というようになった。」(180頁)
日本に「杏林」の名を冠した大学や製薬会社があるのは、皆さんご存知の通りです。
あんずのルーツと歴史5
あんずの薬用材料と成分 (※資料1より)
あんずの薬用材料には、核を割った中にある種子の「杏仁(キョウニン)」、杏仁を砕いて圧搾した「杏仁油(キョウニンユ)」、杏仁を砕き圧搾してさらに水蒸気蒸留などで調整した「杏仁水(キョウニンスイ)」があり、それぞれの成分・作用に応じて使い分けられます。
■杏 仁 (キョウニン)
核を割ると中に種子があって、これを杏仁といい、生のままか、あるいは炒って食用とします。また漢方薬としての効用も知られており、杏仁には肺経の専門薬として気を降ろす作用があり、咳止め効果があるとされています。
| 杏仁の成分: | アミグダリン※ | 2.5~3.5% |
| 脂肪油 | 30~50% | |
| バンガミン酸 |
※アミグダリンには毒性物質の青酸が含まれているので注意が必要です。
■杏仁油 (キョウニンユ)
杏仁をあらく砕いて麻袋に入れ、圧搾して出てきたものが杏仁油です。石鹸の原料・軟膏の其材・注射薬溶剤・毛髪油などに利用されています。
■杏仁水 (キョウニンスイ)
アンズの種子を砕いて圧搾し、さらに水蒸気蒸留してエタノール・水を加え調整したもので、ズアルデヒドシアンヒドリンを含みます。鎮咳・去痰のためにセネガシロップ・アンモニア・ウイキョウ精などと合剤にして内服しますが、過剰摂取により青酸中毒を起こすことがあるので注意が必要です。
※以上の記事は、次の資料を参考として作成しました。
| 資料1: | あんず情報サイト「あんず豆知識」 (参考文献:長野県缶詰協会誌、銀河書房『杏花の里―信州・森のあんず―』、 URL:「http://www.valley.ne.jp/~hanasai/anzu/Ziten/Index2.html」) |
| 資料2: | 『杏花の里―信州・森のあんず―』(監修・横島 章、銀河書房1984年刊) |
あんずの日本での歴史は奈良時代以前から。種の中身が中国古来の薬として伝来しました。あんずの歴史は興味津々。

あんずの日本での歴史も長く、中国から奈良時代以前に伝来しました。中国で古くから漢方薬として珍重されていた種子の中身の「杏仁(きょうにん)」とあんずの木が、朝廷に献上されたのを歴史の始まりとしています。なお、中国伝来のあんずは長い間「カラモモ」と呼ばれ、「アンズ」と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のことです。
中国古来の漢方薬として奈良時代以前に伝来
あんずの歴史を詳しく紹介している『杏花の里―信州・森のあんず―』(銀河書房、昭和59年刊)では、あんず伝来などの歴史について次のように記述しています。
「あんずは中国が原産だといわれている。日本へは、奈良時代以前にもたらされた。今から千年以上前の平安時代に編纂された『延喜式』に、信濃・甲斐・山城より杏仁が朝廷に進貢されたことが記されている。平安時代には、杏は「カラモモ」と呼ばれ、アンズを意味する「杏」の字は鎌倉時代に現れた。これが「アンズ」と呼ばれるようになったのは、江戸時代の初期である(『学芸百科事典エポカ』)。
杏は中国において、古来より漢方薬として珍重されてきた。日本に伝来し、朝廷に進貢されたのも、薬として献上されたものである。江戸時代に書かれた漢方書の『名医別録』や『本草綱目』などには、杏や杏仁が咳止めに効用があるとして取り上げられている(竹松常松・近藤嘉和『薬になる植物のはなし』)。」(18~19頁)
あんず栽培の歴史は江戸中期以降。あんずの歴史はまだ薬の時代で、食品となるにはもう少し時間がかかりました。
松代藩でのあんず栽培の普及
あんずが松代藩で薬として栽培されるようになったのは江戸中期。食品として利用されるるまでにはもう少し時間がかかりました。『杏花の里―信州・森のあんず―』(銀河書房、昭和59年刊)では、栽培普及の歴史について次のように記述しています。
「安永年間(1772~1780)、松代藩は、森村・倉科村・生萱村・石川村・久保寺村などへ杏の苗木を配布した。藩では、小石の多い土地、荒無地を選んで植栽をさせたが、領民のなかには、杏運上、杏仁運上でも取られるのではないかとうわさをして、掘り取り捨ててしまう者もあった。そこで藩では、運上ではなく、村方の利益が目的だと遊説したために、誤解もとけ杏が繁殖するようになった(『松代町史』)。右の説にあるように、藩には、運上(小物成)を取るねらいはなかったのであろうか、のちに杏仁専売を藩がやったところをみると、納得しがたいことである。
松代藩も他の藩と同様、江戸時代も中期になると、台所は火の車になってきていた。…(中略)…代わって登場したのが、『日暮硯』で知られる恩田木工である。木工は宝暦四年(1754)から12年の間に、倹約の奨励、綱紀の粛正、年貢納入制度の改革を中心に再建を進めた。このころ、他の藩で行われ始めていた国産奨励・殖産興業政策も当然考えられたであろうが、これは定かではない。しかし、木工による改革からわずか10年後の安永年中に、藩有林の御林に杉苗が植林されるとともに杏苗が領内諸村に配布されたことは、これが恩田木工の藩政改革、殖産興業政策の延長線上にあるものと推察される。その後、嘉永年間(1848~1853)に松代藩は、矢作村(今の更埴市屋代)他、領内の村々に杏苗およそ1万5千本を配布した。個々の村々には、安永から嘉永の間、また嘉永後にも配布したと思われるが、詳細は定かではない。
元治元年(1864)、松代藩は領内の村々に杏樹の本数を書き上げさせている。領内全体の数は3,717本であった。森村はこの時350本、全体の9%あまりを占め、すでに領内最高であった。…(中略)…このころ、森村の名主を勤めた西村金兵衛は、森村のことを扱った『離山神社略記』を著している。このなかで…(中略)…寛政期(1789~1800)になると、江戸販売が盛んになり、売値も当初の三分の一に下落するほどに生産額が増え、順調に成長を遂げていることを伝えている。しかし、杏栽培はただ順調な発展をとげていったわけではない。」(21~23頁)






